2018年12月22日土曜日

『観光地は外国人であふれている』


京都や奈良で、外国人観光客が多くなってきているという話をよく聞くようになりました。
訪日外国人は今年度3000万人を超えたそうです。10年前に比べて4倍ほどになります。
京都や奈良だけでなく、日本各地にそのような現象が起きているわけですね。
先日、テレビで、その京都の観光客の増加のことを取り上げている番組がありました。

すでに、京都は、オーバーツーリズムだそうですそこで、ちょっと気になることがありました。

自然の中に人が多く入りすぎることを、オーバーユースと言います。
同じようなことかもしれませんン。
しかし街中でのオーバーユース…オーバーツーリズムと表現していましたが、そんなことがあるのだろうかと思いました。
自然の場合は、人が多く入ることによって、色々なところが踏み荒らされ、裸地化したり、トイレが足りなくて不衛生になったりという問題が生まれますが、街中では裸地化も何もないでしょうし、トイレも大丈夫でしょう。と、思いました。
しかし、ゴミが増えているのだそうです。今までは、街角にゴミがすれてられることなどはなかったそうです。
しかし、最近は街角に、食べ物のトレイが捨てられていたり、コンビニ袋に入ったごみがポンと置かれていたりするそうです。
一概に言えることではないのでしょうが、外国人が増えて、ごみのポイ捨てが増えたということは、外国人が捨てていると考えてしまいますね。
私も、街中で、日本人だと思う人がごみを捨てるのを見て、むっとした時、その人たちが、外国語を話していたという経験をしたことがあります。

外国人がもっときちんと、日本の文化を知り、その文化に沿った観光をしていってほしいと思うものです。
しかし、それは返す刀で、自分たちの、一昔前の団体旅行の恥を思い出させるものでもあります。
きっと、昔はこんな旅行の仕方を日本人もしていたのだろうな。「旅の恥はかき捨て」などと言いながら。

しかし、もうひとつ、気になることがあります。
本当に、ごみをポイ捨てしているのは外国人なのでしょうか?
いえ、全部が全部外国人ではないでしょう。ポイ捨てする多くは外国人なのでしょうか?

今、外国人が、ごみの多くを捨てているとしても、これから先、そのごみがある街の風景になれてしまった、日本人が、ごみを捨てるようになってしまうのではないでしょうか?
そんな風になってしまうような気がしています。
今の日本人は、ごみは捨ててはいけないという気持ちよりも、まわりがそうしないから、私もしないでいようと思ってごみを捨てていないように思うのです。
ですから、まわりがごみを捨てだせば、私もいいやと言って、捨て始めてしまうような気がしてなりません。

そんなことにならないように、子どもたちを育てなくてはいけませんね。
ゴミはごみ箱に捨てなくてはいけない。人が見ていようが見ていまいがです。
それは、いい悪いではなく、習慣としなくてはいけないことです。
習慣となるのは、子どもの時に、躾られるからです。
そんなしつける場所は、今、家庭の中にあるのでしょうか?
あると信じたいと思います。
同時に、それをお手伝いするのが、私たち、社会教育の者の務めであると思っています。


2018年12月15日土曜日

『答えのない問い』


答えが出ないようなこと考えて見ませんか?
ネットで調べないでください。

例えば、
『生きるとはどういうこと? 』
『死ぬとどうなるの?』
『人はなんで働くの?』
『人生にとって大切なものは何?』

『友情ってどんなもの』
『愛するとはどういうこと』
『育てるってどういうこと』

『将来、自分はどうなっていたい?』

こんな質問にも、なんとなくネットでは答えのようなものが書き出されています。
しかし、それは、あなたの答えではありません。
自分で考えてみてほしいのです。

子供さんにも、そんな、答えが出ないような質問をして見てください。
子供は、簡単に答えが出ないようなことに対しても、思いつきのように答えを出してきたりします。
そして次の日には違う答えを出したりします。
それでいいのです。
そのように、いつも考えて、いつも今一番正しいと思う答えを出す習慣をつけることが大切なのです。
生きて行く中で、一番大切な者は何か。これはいるのかいらないのか。
生きて行く中で、一番大切な事は何か。今、しなくてはいけないことと、しなくていいこと。
私たちは、いつも答えがないことを考え続けなくてはいけないのです。
そして、その時一番正しいと思う答えに基づいて生きていくのです。
でもそれは明日、違う答えになるかもしれないのです。それでもいいのです。

なぜなら、誰も答えを持っていない『死ぬとは?』ということに向かって生きているのですから。
どのように死ぬかを考え、その姿にたどり着いて死ねれば、幸せなのではないでしょうか?
もっと生きたいと思い続けて、まだ死にたくないと醜くもがいて死んでいくのは幸せではないのではないでしょうか?

答えが出ないようなことを考え続ける習慣を、子供の時に身につけてほしいと思います。

政治家は、長生きして幸せになろうと言います。一票が大切ですから。
お医者さんも、まだまだ生きられますよと言います。命が大切という大義名分のもと、医療費を稼ぎたいですから。
自分の命をどのように生かしていき、死んでいくのか。
答えはありませんでしょう。
しかし、誰もが出さなくてはいけないことです。
子供の時にから、そんなことを考える習慣を持ちたいものです。


2018年12月8日土曜日

『長く風邪をひきました』


今回のお話は国際自然大学校の機関誌『OUTFITTER』雑記帳201712月号に掲載した雑記帳の再掲載です。
ただし、20181208日に加筆しました。



風邪ひきました。
9月に久しぶりでキャンプの指導をした時、雨の中、大きなフライシートを張りました。
若いスタッフもいたので、ちょっと張り切ってしまいました。
雨にも濡れ、汗だくにもなり、ちょっと冷えたのだと思います。着替はしたのですが、ダメでした。
若いときは、こんなことで風邪引いたりしなかったのに・・・
その風邪が、なんとつい先日まで尾を引いてしまいました。2か月近くです。
よくなったかなと、思うと、またぶり返すといった感じです。咳が止まりませんでした。
病院に何回も行き、薬もずいぶん飲みました。
のど飴も、たくさん買いました。
小さなバックが薬入れになってしまいました。
若いときは、こんなに薬を飲むなんてことはなかったのに・・・
しかし、そんな風邪を引いている中でも、朝のラジオ体操は頑張って続けました。と、言ってもテレビ体操ですが…
この朝の体操も、今までは、ここまで曲がっていたのが曲がらない。あれ、ちょっと腰が痛い、無理をしない程度にしておこうという。そんなことがだんだんと増えて来ています。毎朝していると、定点観測のように自分の体の衰えがわかります。
若いときは、もっと軽やかにできていたのに・・・
若いときは・・・というようになったら年だと言いますね。
今、まさに、年なのだなと思います。
これが老いるということなのだなと思います。

見た目は、どうとでもなるかもしれますが、風邪を引きやすくなるとか、治りにくいとか、体が思うように動かなくなるといったことは、生きていく上で、とても問題です。
すなわち、死に近づくということです。仕方のないことです。人はいつか死ぬのですから。
しかし、寝たきりで生きながらえたりしないように、その時まで、自分のことは自分でできるような体でいたいと思います。

八ヶ岳の我が家の土地を分けていただいた大家さんのご夫妻は80才をお大きく超えた今も、毎日畑仕事をし、庭の草むしりをされてお元気です。
ご自分では、年だよとおっしゃっていますが、なかなかどうして、お元気です。
こんなふうに年老いたいと思います。
自分のことを自分でしたいることが大切なのかもしれません。
庭を綺麗にし、花を咲かせ微笑み、食べるものは自分で育てる。そのために汗をかく。



2018年12月1日土曜日

『ヘルプマーク』


もう10年以上前の話なのですが、モンゴルは石鹸が足りないということで、日本の人たちが、石鹸を寄付して、モンゴルに送ったということがありました。
しかし、実は、モンゴルは、石鹸が足りないのではなかったのです。
まず、乾燥した国なので、あまりせっけんを使って、体を洗う問う習慣がなかった。
また、まだ、浄化槽設備が整っていないので、国が、衛生面から石鹸を使うことを推奨することができなかったのです。
そこへ日本から大量の石鹸が送り込まれました。
モンゴルは、石鹸を使う習慣が普及したかもしれません。
同時に、川にそのまま石鹸液が流れ、魚が大量に死んでしまうということが起きました。
当時、まだ、川魚をとって暮らしていた人たちがたくさんいた国です。その人々は、相当困ったと聞いています。

日本でその運動をした人たちに悪気はなかったでしょう。
きっと旅した時に、『石鹸なんか使わない。』と、モンゴルの人が言った言葉を、通訳の人が、『石鹸なんかない』とか訳したのかもしれませんね。
それを聞いた、人の好い日本人が、なんてかわいそうなんだろう。それなら、石鹸を集めて送ってあげようということになったのでしょう。
しかし、本当のところは知らなかったのでしょう。
受け取る方は、日本から物がもらえるなら何でもいいと思ったのではないでしょうか。
そういう時代でした。

さて、今私たちは、本当に本当に豊かな国に住んでいます。
しかし、今年は災害も多発しました。
そのたびに、私たちは、被災地に手を差し伸べてあげなくてはいけないという思いに駆られました。
災害があったところにはたくさんの困っている人がいらっしゃるのは間違いのないことです。
その方々に手を差し伸べるのはとてもいいことです。
しかし、いま、平静な生活に戻った時、その手を差し伸べる気持ちを、皆さんは持ち続けているでしょうか?

コンビニで、会計を手間取っている人の後ろで、チッと舌打ちする若者を見ました。
エレベーターに乗ろうとするベビーカーの前にするりと割り込む奥様を見ました。
おふたりとも、困っている人には見えませんでした。
私たちは、災害のような特別な出来事に対しては興味を持ち、流行に乗るように支援をするのではいけないと思います。
本当に大切な支援は、目の前で、自分自身が、この人は困っていると判断し、お話をして、支援を希望する人に対して、手を差し伸べることなのではないでしょうか?

そういえば、お恥ずかしながら、先日知ったのですが…
ヘルプマークって知っていますか?
見た目ではわからないけれど、援助や配慮、支援が必要な人がつけるマークです。
せめて、そんな人たちには、気づいてあげて、手を差し伸べるやさしい人間になりたいと思います。


こんなマークがなくても、手を差し伸べられる人間になりたいものです。